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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「終わりの日の備え」


Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書17章20節から37節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない(見えるものを伴って来ていない)。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼(うす)をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。† そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹(たか)も集まるものだ。」

(注)

・ファリサイ派:ハスモン王朝時代(紀元前166年‐紀元前37年)に形成されたユダヤ教の一派です。イエス様の時代にはサドカイ派と並んで民衆に大きな影響力を持っていました。律法学者の多くはこの派に属していました。律法を守ることに熱心です。安息日を厳格に順守し、断食、施し、清めの儀式を重んじたのです。

・サドカイ派:祭司や上流階級を代表していました。律法の解釈や実践の面でファリサイ派と対立していたのです。霊、天使、復活を否定したのです。

・神の国(天の国):旧・新約聖書を貫く信仰の基本理念です。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。

■神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。イエス様はこの「神の国」を福音(良い知らせ)として宣教されたのです。

 

・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者のことです(エゼキエル書2:1,3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では「神様の権威」を委ねられた最後の審判者であることが強調されているのです。他に「人の子は安息日の主である」(ルカ6:5)、「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」(ルカ11:30)、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(ルカ12:40)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21:36)などがあります。第三はこの世に生きる人間のことです。


●ヨナのしるしについては旧約聖書のヨナ書3章をご一読下さい。

人の子が現れる日:天に上られたイエス様が地上に再び来られる日のことです。 再臨-終わりの日-と呼ばれています。その時に「最後の審判」が行われるのです。


■その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴(しるし)が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代(世代)は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。・・目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。(マタイ24;29-44)

・新しい天と新しい地:黙示録の著者ヨハネの言葉は次の通りです。

■わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:1-4)

・死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ :

諺(ことわざ)です。残された人々は旋回(せんかいする)するはげ鷹たちによって確認されるのです。終わりの日に地上に残された人々は死んでいるのです。箴言(しんげん)30:17、ホセア書8:1を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして、ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言ったのです(マタイ3:1-2)。一方、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:14-15)。様々な試練に遭遇し、十字架上で政治犯-罪状書きにはユダヤ人の王と書かれています-として処刑されたのです。しかし、神様は三日目にイエス様を復活させられたのです。イエス様はご自身が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ「神の国」について話をされたのです(使徒1:3)。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」の福音を証しされたのです。「神の国」の概念はキリスト信仰にとって決定的に重要です。「神の国」の到来とは神様が人間の歴史に介入されたことです。イエス様が悪霊を追い出しておられる時、群衆の中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う人々がいたのです。イエス様は「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言って反論されたのです(ルカ11:20)。イエス様は様々な「力ある業」によって「神の国」の到来を可視化されたのです。ただ、それらは「神の国」の部分的な顕現(けんげん)なのです。イエス様が再び来られる時に全体像を明らかにされるのです。新しい天地が創造されるのです。すべての人が「行い」に応じて裁かれるのです。

*四福音書は「神の国」の到来を様々な出来事によって伝えています。イエス様は大勢の群衆の前で重い皮膚病を患っている人を癒されたのです(マタイ8:1-4)。怖(こわ)がる弟子たちの不信仰を指摘し、嵐と湖を叱って凪(なぎ)にされたのです(マタイ8:23-27)。集まった女性と子供を含む五千人以上に十分な食べ物が提供されたのです(マタイ14:13-21)。汚れた霊に取りつかれた男の人を癒されたのです(マルコ1:21-28)。漕(こ)いでいる弟子たちの方へ湖上を歩いて近づき、安心しなさいと言って船に乗り込まれたのです(マルコ6:45-52)。耳の聞こえない、舌も回らない人にエッファタ(開け)と言われると耳が開き、舌のもつれが解けたのです(マルコ7:31-37)。癒していただくために中風の人を剥(は)がした屋根からつり降ろしたのです。イエス様は人々の信仰を見て、あなたがたの罪は赦されたと言われたのです。中風の人の病も治ったのです(ルカ5:17-26)、右手の萎(な)えた人に手を伸ばしなさいと言われると、元通りになったのです(ルカ6:6-11)。ファリサイ派の人の家で水腫(体液が貯留する病気)を患っている人が病から解放されたのです(ルカ14:1-6)。結婚式で水をぶどう酒に変えられたのです(ヨハネ2:1-11)。物乞(ものごい)いをしていた生まれつきの盲人の視力が回復したのです(ヨハネ9:1-41)。死んで四日も経った(確実に死んだ)ラザロを生き返らされたのです(ヨハネ11:1-44)。前代未聞のことが起こっているのです。

*ファリサイ派の人々がイエス様に「神の国」の到来の時期について質問していますが、これらの人もキリスト信仰の根本理念である「神の国」に(悪意に満ちた)関心を持っているのです。ただ、「神の国」がイエス様の「力ある業」を通してすでに到来していること、「終わりの日」(神様の裁き)が近づいていることを理解していないのです。「神の国」について尋ねたのはファリサイ派の人々だけではありませんでした。ある時はファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が一緒に来て、イエス様を試そうとして、天からの徴(しるし)を見せてほしいと願ったのです。「復活」についての見解を異にし、何かと対立する両派がイエス様に対しては共通の敵として結束するのです。イエス様は「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代(世代)の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答えられたのです(マタイ16:1-4)。一方、イエス様がエルサレム神殿の崩壊を予告された時に、ある人々は「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねています。天変地異や迫害などを示し、忍耐して「永遠の命」を得なさいと励まされたのです(ルカ21:7-19)。悔い改めた人々に「救い」は訪れるのです。幸いにも神様の下へ帰る機会はまだ残されているのです。

*イエス様は旧約聖書を大切にされたのです。機会あるごとに適切な個所を引用されたのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。・・男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」と記述されています(創世記1:27-28)。神様は人を創造し、彼らを祝福されたのです。ところが、地上に人の悪が増したのです。常に悪いことばかりを思い計(はか)っているのを見て、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められたのです。人だけでなく、家畜も、這(は)うものも、空の鳥も地上から拭(ぬぐ)い去ることを決断されたのです。やがて、洪水によって命あるものはことごとく死んだのです。ただ、ノアと家族、一部の生き物だけは生き永らえたのです(創世記1-8)。父祖アブラハムと別れた甥(おい)のロトはソドムに天幕を移しました。町の住民は邪悪で多くの罪を犯していました。神様はアブラハムにソドムを滅ぼすことを明らかにされたのです。同時に、十人でも正しい者がいれば町を存続させると約束されたのです。御使い二人がソドムに着き、ロトに「婿(むこ)や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい」と言ったのです。ロトは嫁いだ娘たちの婿に逃げるように促(うなが)したのですが、彼らは警告を無視したのです。ロトの妻と二人の娘たちだけが逃げたのです。町は完全に消滅したのです。「後ろを振り返ってはいけない」という指示を守らなかった妻は塩の柱となって死んだのです(創世記18-19)。

*「神の国」の到来は新しい天地創造の開始を告げているのです。イエス様の再臨によって完成するのです。その時にノアやロトの時代と同じようなことが起こるのです。ところが、2000年経った今も人々は通常の生活を連綿と続けているのです。再臨やそれに伴う裁きを気にしていないのです。多くの人にはイエス様の警鐘(けいしょう)が取り越し苦労であるかのように見えるのです。しかし、そうではないのです。神様はなおもこの世を愛しておられるのです。人々の準備が整うことを忍耐して待っておられるのです。与えられた猶予(ゆうよ)の期間に感謝するのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。苦しみや悲しみの中にあっても希望の内に生きることが出来るのです。イエス様のご忠告に耳を傾けて然(しか)るべき時に備えるのです。「神の国」は部分的であってもイエス様を通して人々の間にすでに来ているのです。当初は「からし種」のように極めて小さかったのです。先人たちの苦難に満ちた働きによって着実に成長しているのです。現代に生きるキリストの信徒たちも「神の国」の建設に参画するのです。いつの時代も「神の国」と「この世」-富、権力、名声など-は相容れないのです。事実、「神様の正義と愛」を実践するキリストの信徒たちは試練に遭遇しているのです。最後まで耐え抜いた人々に「永遠の命」が与えられるのです(ルカ22:28-30)。「救い」は安価な恵みではないのです。備えを万全にするのです。「主イエスよ、来てください」と申し上げるのです(ヨハネの黙示録22:20)。

2025年07月13日

「わたしの言葉を信じなさい」

ヨハネによる福音書5章19節から40節

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

(注)

・ヨハネ4章から7章について:4章から6章、続いて5章、7章と読むとスムーズです。

・彼ら:イエス様に敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちなどです。

・死んだ者が神の子の声を聞く・・:ラザロの復活に言及されていると推測されるのです(ヨハネ11:38:44)。


・人の子:三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。イエス様はご自身が最後の審判者であることを明らかにされたのです。

・マラキ書:旧約聖書の最後に編纂されています。

・預言者エリヤ:紀元前865年から850年頃まで北王国(イスラエル)で活動しました。異教の神バールを信仰するアハブ王と鋭く対立したのです。エリヤは嵐の中を天に上って行った人です(列王記下2:11)。

・シドン:異教の神バール信仰の中心地です。

・ヒゼキヤ王:紀元前715年にアッシリアの支配下にあった南王国ユダの王に就任したのです。ほとんどの時間を国の独立と異教の神との闘いに費やしたのです。

・預言者イザヤ:紀元前8世紀の後半のおよそ40年間、神様の言葉を南王国ユダの四人の王-ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ-に伝えました。

・センナケリブ:紀元前704年から681年までの間アッシリアを統治した王です。701年にユダに侵攻したのですが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤに対応について相談したのです。主の天使がアッシリア軍を打ち破ったのです。(列王記下18-19)

・カナ:ガリラヤ地方の中央部に位置し、弟子の一人ナタナエルの故郷です。聖書地図を参照して下さい。

・カファルナウム:イエス様が宣教の拠点とされた村です。ガリラヤ湖畔にあり商取引が盛んに行われていました。

(メッセージの要旨)

*イエス様はご生涯を通して、また復活された後も40日にわたって「神の国」(天の国)-神様の支配-を宣教されたのです。預言者マラキは嵐の中を天に上って行った預言者エリヤが再び地上に来ることを預言しています(マラキ書3:23-24)。イエス様はご自身の先駆(さきが)けとして遣わされた洗礼者ヨハネをエリヤの再来であると言われたのです(マタイ11:14)。このヨハネがイエス様に弟子を送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。イエス様は「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人(人々)は幸いである」と答えられたのです(ルカ7:18-23)。神様は新しい天地創造に着手されたのです。貧しい人々や心身に障害がある人々など苦難に喘(あえ)ぐ人々が優先的に慰められるのです。永遠のテーマであった「死の支配」が打破されたのです。人々は「永遠の命」の希望において生きることが出来るのです。イエス様は「力ある業」を通して「神の国」を先取りして見せて下さるのです。今日の聖書の個所はキリスト信仰の本質を要約しています。同時に、変容されたキリスト信仰への警鐘となっているのです。「救い」は教義を理解することによって得られないのです。イエス様の教えを実行するのです。

*イエス様は天地創造の初めから神様が「命の付与者」であることを明確にされたのです。異教の神を信じる悪名高いアハブ王の時代、神様は預言者エリヤに地中海沿岸にあるシドンの町サレプタに行き、信仰心の篤(あつ)いやもめの家に逗留(とうりゅう)することを命じられました。ところが、彼女の息子が病気のために亡くなったのです。エリヤは主に向かって「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」と祈ったのです。彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と願ったのです。主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになり、子供は生き返ったのです(列王記上17:8-24)。死に至る病に罹(かか)った南王国(ユダ)の王ヒゼキヤは顔を壁に向けて祈り「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と大いに泣いたのです。神様は預言者イザヤを通して「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上(のぼ)れるだろう。わたしはあなたの寿命(じゅみょう)を十五年延ばし、センナケリブの手からあなたとこの都を救い出す」と言われたのです(列王記下20:1-7)。神様は貧しいやもめの窮状を心に留め、ヒゼキヤ王の涙の訴えを聞き入れられたのです。神様はご自分に依り頼む者たちを決して見捨てられないのです。

*ヨハネの福音書はイエス様の「力ある業」や「しるし」を合わせて7回伝えています。これらはイエス様が「神様の子であること」を証明するのです。最初はガリラヤ地方のカナにおける結婚式で水をぶどう酒に変えられた出来事です。弟子たちはイエス様を「神様の子」と信じたのです(2:1-12)。カファルナウムに住む王の役人がカナにおられたイエス様を訪ねて来ました。病で死にかかっている自分の息子の癒しを願い出たのです。イエス様は遠く離れたカファルナウムにいる子供を病から回復させられたのです。役人と家族はこぞってイエス様を信じたのです(4:46-53)。三回目はガリラヤ湖の東側の山の上に集まった五千人に食べ物を与えられたことです。群衆はイエス様のなさった「力ある業」を見て、この人こそ世に来られる預言者であると言ったのです(6:1-15)。イエス様は湖の上を歩かれたのです。弟子たちに「神様の御力」を示されたのです(6:16-21)。その後、イエス様はエルサレムで38年間もベトザタの池の周りの回廊に横たわっている病人を安息日に癒されたのです。五回目です(5:1-18)。エルサレムで安息日に生まれつきの盲人を見えるようにされたのです。「心身の障害は罪の結果である」とする解釈を「神様の御業が現れるためである」へ変更されたのです(9:1-41)。七回目は病気で死んだラザロを蘇らされたことです。マルタヤマリア、近しい人々を悲しませている「死」に憤られたのです。その支配を打ち砕かれたのです(11:38-44)。多くの人が「救い主」を信じたのです。

*イエス様は安息日を守らないだけでなく、ご自身を神様と等しい者とされたのです。ユダヤ人たちはイエス様を神様への冒涜(ぼうとく)の罪で殺そうとしているのです。律法によると死刑に処するためには二人以上の証人が必要です(申命記17:6)。権力者たちはイエス様を告発できる証拠と証人を確保しているのです。一方、イエス様はご自身が「神様の子」であることを裏付ける五人の証人を用意されているのです。最初の証人は神様です。神様はイエス様と共におられるのです。御子としての使命に権威を与えられたのです(ヨハネ17:1-6)。神様の「御言葉」と「御力」がイエス様に内在しているのです。第二の証人は洗礼者ヨハネです。イエス様の先駆けとして燃えて輝くともし火となっただけでなく、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」として宣言したのです(ヨハネ1:29)。第三の証人はご自身による「力ある業」です。神様が共におられなければ「奇跡」や「しるし」は起こらなかったのです。イエス様の「復活」において決定的な確証が与えられたのです。第四の証人は(旧約)聖書です。ユダヤ人は聖書の研究に熱心でした。しかし、イエス様に関するメッセージがどのように成就するかについて理解しなかったのです。最後にモーセを証人に加えるのです。「主はあなた(たち)の中から・・わたしのような預言者を立てられる。・・彼に聞き従わねばならない」と命じたのです(申命記18:15)。神様はイエス様について数多くの証拠を備えて下さっているのです。イエス様は神様から遣わされた「神様の子」なのです。

                                        
*キリスト信仰とはイエス様を信じることです。神学的(理論的)に「救い主であること」を認識するのではなく、イエス様の御跡を辿(たど)って生きることなのです。イエス様のご生涯は四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に詳述されています。日本語に訳された聖書の種類は限られていますが、世界には個人訳を含めて特色のある聖書が出版されています。イエス様のお言葉をすべて「赤字」で印刷している聖書もあります。一方、礼拝で福音書が朗読される時には会衆が全員起立する教会もあります。イエス様はキリスト信仰の中心であることが強調されているのです。イエス様への応答がその人の運命を決定づけるのです。イエス様の「神様の子」の主張はユダヤ人にとって躓(つまず)きの石となったのです。イエス様は一般民衆に難しい言葉を語られなかったのです。「野原の花」(ルカ12:27-28)や「からし種」(マタイ13:31-32)に譬(たと)えて「神の国」-神様の主権-を説明されたのです。人々は福音の真理を容易に理解することが出来たのです。律法に精通した指導者たちにはご自身の「力ある業」から学びなさいと言われたのです。神様がイエス様と共におられなければ、死んで四日も経ったラザロが蘇(よみがえ)らなかったのです。生まれつきの盲人が見えるようになることもなかったからです。キリスト信仰は神学や哲学によって解釈された教義ではないのです。イエス様は「わたしの言葉を信じなさい」と言われ、「ご自身に従いなさい」と命じられたのです。これらを順守して歩む「生き方」のことなのです。

2025年07月06日

「豊かな実を結びなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書15章1節から17節

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

(注)

・旧約聖書におけるぶどうの木(畑)は神様の民(イスラエル)のことです:

■万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました(詩篇80:8-10)。

・イエス様は「わたしはまことのぶどうの木」の他に「わたしは・・である」を六回も言われました。

 

「命のパン」(ヨハネ6:35)
「世の光」(ヨハネ8:12)
「門」(ヨハネ10:9)
「良い羊飼い」(ヨハネ10:11)
「復活であり、命」(ヨハネ11:25)
「道であり、真理であり、命」(ヨハネ14:6)

・不信仰なぶどう畑:

■わたし(イザヤ)は歌おう、わたしの愛する者のために/その(彼の)ぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者(人)は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱい(野生の)ぶどうであった。(彼は言った。)さあ、エルサレムに住む人(人々)、ユダの人(人々)よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前(あなた)たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。 (イザヤ書5:1-5)

・不信仰なぶどうの木:

■主なる神の言葉がわたし(預言者エゼキエル)に臨んだ。「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしが薪(まき)として火に投げ込んだ、森の木の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。(エゼキエル書15:1-7)

■イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾(かざ)り立てた。彼らの偽(いつわ)る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。(ホセア書10:1-2)

(メッセージの要旨)

*旧約聖書には神様が「農夫」、イスラエルが「ぶどうの木」あるいは「ぶどう畑〔園〕」として表現されています。「ぶどうの木」の譬(たと)え話は弟子たちや聞く人々に神様への反抗を繰り返して来た祖先の歴史を想起させるのです。イエス様はご自身を「まことのぶどうの木」と呼ばれたのです。イスラエルに代わって神様とすべての民族を和解させる「仲保者」になられたことが宣言されたのです。イエス様とつながることが絶対的な要件になったのです。キリストの信徒たちにも「豊かな実」を結ぶ使命-神様に栄光を帰すこと-が与えられたのです。イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。・・隣人を自分のように愛しなさい。・・この二つにまさる掟はほかにない」と明言されたのです(マルコ12:30-31)。ご自身はそれらを実行されたのです。キリスト信仰とは御言葉を暗唱することや教義を学習することではないのです。イエス様のご生涯に倣(なら)って生きることなのです。キリストの信徒を自称する人が弟子ではないのです。「豊かな実」を結ぶ人がイエス様の弟子なのです。「豊かな実」を結ばない枝は取り除かれるのです。12使徒の一人に選ばれたイスカリオテのユダはイエス様と決別して自らを滅ぼしたのです(マタイ27:3-5)。キリスト信仰の意味が変容され、多くの人が誤解しているのです。「救い」はイエス様を信じるだけでは得られないのです。つながっているかどうかがその人の「救い」を決定するのです。悔い改めて「豊かな実」を結ぶのです。

*イエス様は他にもご自身を「命のパン」、「世の光」、「良い羊飼い」などに譬えておられます。いずれも古代ユダヤの伝統に由来しているのです。同時に、キリスト信仰の真髄(しんずい)を簡潔に表現しているのです。イエス様は何かを教えられる時、ファリサイ派の人々や律法学者たちのように難しい哲学的、神学的な用語を使われませんでした。教育の機会を奪われた貧しい人々(農民や労働者たち)が容易に理解出来るように日常の出来事や身近な物に譬えて語られたのです。旧約聖書の記述にある「ぶどうの木」や「ぶどう畑」のイメージはユダヤ教において好んで用いられた手法です。イエス様は踏襲(とうしゅう)されたのです。新約聖書にも数多く紹介されています(マルコ12:1-11など)。聖書は旧約聖書を土台とする壮大な建築物です。イスラエルの民の歴史や慣習は新約聖書にも受け継がれているのです。神様はイスラエルの民を選び契約(旧約)を結ばれたのです。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と約束されたのです(出エジプト記20:6)。イスラエルの民は神様が植えられた「ぶどうの木」なのです。しかし、「豊かな実」を結ぶことはほとんどなかったのです。預言者たちの警告を無視して神様への反抗を繰り返したのです。神様はそのたびにイスラエルの民を懲(こ)らしめられたのです。しかし、見捨てられることはなかったのです。時は満ちたのです。新しい時代が到来したのです。イエス様が「ぶどうの木」の任務を担われたのです。神様はイエス様を通して語られるのです。

*イスラエルの民は「ぶどうの木」としての使命を果たさなかったのです。神様はイスラエルの民の位置にイエス様を据えられたのです。人々に「まことのぶどうの木」であることを宣言されたのです。イエス様によって示された新しい契約には神様のぶどう畑には一本のぶどうの木があるだけなのです。イスラエルの民はこれまでのように神様のぶどう畑で当然のように育てられていた「ぶどうの木々」ではなくなったのです。イエス様につながって生きなければならない枝になったのです。神様はご自身が愛情をもって手入れをした「ぶどうの木々」が「豊かな実」を結んでいるかどうかをご覧になられました。イエス様もユダヤ人たち(イスラエルの民)が戒めを実行しているかどうかを確認されるのです。いずれにしても「豊かな実」を結ぶことが「永遠の命」(救い)に至る道なのです。キリスト信仰はイエス様が「神の子」あるいは「救い主」であることを信じて完結しないのです。神様に栄光を帰す「生き方」のことだからです。「この世」においてキリスト信仰を貫くこと-「豊かな実」を結ぶこと-は簡単ではないのです。様々な困難に遭遇するのです。多くの人がダブルスタンダードー信仰と行いを分離すること-によって問題を解決しているのです。しかし、ぶどうの枝が幹から離れればやがて枯れるのです。「神の国」と「この世」は両立しないのです。二人の主人に仕えることは出来ないのです。キリストの信徒たちは神様にすべてを委ねるのです。隣人(貧しい人々や虐げられた人々)を愛するのです。「神様の御心」を全力で証しするのです。

*「わたしはまことのぶどうの木」にはもう一つ重要な視点が含まれているのです。それは富を蓄積する祭司(指導者)たちへの厳しい警告です。イスラエルの歴史の中で長く受け継がれてきた祭司制度の終焉(しゅうえん)を暗に知らせておられるのです。神様に奉仕していると考える指導者たちはイエス様と徹底的に対立するのです。ところが、教会ではこのような歴史的事実に言及されることがほとんどないのです。イエス様は真空の中で御言葉を語られた訳ではないのです。祭司たちは神様とイスラエルの民との間を執り成す役割を担って来ました。一方、特権的地位を利用して富を蓄積していたのです。献金と捧げ物によって一般民衆とは比較にならない豪華な暮らしをしていたのです。しかし、彼らは祭司職の報酬で満足しなかったのです。貪欲に富を追い求めたのです。余剰のお金で土地を購入したのです。農民たちに土地を貸し付けて高い借地料を取ったのです。ローマ帝国への税や神殿税を納めることが出来ない貧しい人々にお金を融資して利子収入を稼いだのです。祭司たちは民衆を犠牲にして財産を増やしているのです。祭司の家系の出身である歴史家ヨセフスは著書「ヨセフスの生涯」において同僚の祭司たちが膨大な富を蓄えていたことを伝えています。祭司たちは私利私欲のために知識と教養を駆使して人々の信仰生活だけでなく、社会、経済、政治のすべてを支配したのです。エルサレム神殿は強盗の巣窟に堕(だ)しているのです。指導者たちに天罰が宣告されたのです(マタイ23)。終わりの日に先立ってイエス様が遣わされたのです。


*イエス様は祭司たちの不信仰と腐敗を告発し、特権的地位の悪用に公然と異議を唱えられたのです。イエス様が「まことのぶどうの木」であるなら、祭司たちは「偽のぶどうの木々」なのです。神様がかつてイスラエルの祭司たちに期待した「仲介者」としての職務を解任し、イエス様が彼らに代わってその任に着かれたのです。イエス様の厳しい批判は祭司たちの権益を奪い、生活基盤さえ危うくするのです。イエス様の言動を看過することは出来ないのです。さらに、イエス様は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われたのです。イエス様への信仰が人々の過去の罪を清めるのです。エルサレム神殿に巡礼して献金や捧げ物をする必要がないのです。神様に近づくために大祭司の執り成しさえも不要となったのです。祭司たちにとって最も重要な神殿の正当性や清めの儀式が効力を失ったのです。ユダヤ教の宗教制度が根底から否定されたのです。祭司たちは伝統と権威を軽んじ、神様を冒涜するイエス様を殺そうとするのです。イスラエルの歴史において大きな転換点が来たのです。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」は「霊的なつながり」だけではないのです。イエス様は「豊かな実」を求めておられるのです。しかも、これは単なる勧めではないのです。その人の「永遠の命」に関わる重大なことなのです。祭司たちの仲介がなくても神様に近づけることが宣言されたのです。しかし、キリスト信仰は「安価な恵み」ではないのです。イエス様のお言葉を真剣に受け止めて「戒め」を実行するのです。

2025年06月29日

「偽預言者たちのようであってはならない」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:イエス様は二つを挙げられました。第一は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなた(がた)は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)、第二は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)です。

・貧しい人々を支える義務:

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者たちや寄留者たちのために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:9-10)


・施し:安息日にユダヤ教の会堂で施しや慈善寄付が行われていました。

・偽善者たち:律法学者たちやファリサイ派の人々を指しています。彼らの悪行はマタイ23章に詳述されています。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に行います。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ったのです。

■ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。(使徒言行録3:1)

・過ち:律法や慣習に違反することです。個人的(道徳的、倫理的)な観点から説明されることが多いのですが、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれています。これらは社会的な要因が大きいのです。イエス様はローマ帝国の圧政に苦しんでいる貧しいキリストの信徒たちに「主の祈り」を教えられたのです。神様を崇(あが)めること、相互に負債を免除することが核となっているのです。マタイ18:21-35を併せてお読み下さい。

・断食:自分を否定することです。

■以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行(節制・禁欲)をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者たちも、あなたたちのもとに寄留している者たちも同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖(あがな)いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責(罪)が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳(おごそ)かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである。(レビ記16:29-31)

 ●第七の月→太陰暦です。季節としては太陽暦の9月の終わりから10月の初めの頃です。

・天の国:神の国とも言います。神様の全き支配のことです。誤解されることも多いのですが、死後に行く天国ではないのです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。


(メッセージの要旨)

*不純な動機を隠して信仰心を装(よそお)えば、それは偽善です。神様ではなく自分を褒(ほ)めたたえることは偶像礼拝に他ならないのです。「施し」、「祈り」、「断食」はユダヤ教の中でも重要な信仰の証しです。イエス様の弟子たちもこれらの規定を順守したのです。しかし、人間は名声や富の誘惑に陥(おちい)りやすいのです。イエス様は人間の評価を求めることを目的としたいかなる行いも神様には喜ばれないことを教えられたのです。それだけではなく「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である(に災いあれ)」とさえ言われるのです(ルカ6:26)。善い行いには報いが伴うのです。ところが、偽善者たちは人間の評価を自分の誉(ほ)れとしているのです。彼らに「救い」は訪れないのです。一方、真の信仰者たちはすべてにおいて神様に栄光を帰すのです。イエス様はこれらの人に「心の貧しい(貧しさや苦難に心を打ち砕かれた)人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。・・義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」と言われるのです(マタイ5:3-10)。キリストの信徒たちはイエス様のご指示に従い「神様の戒め」を実行するのです。

*施しをすることは選択の問題ではなのです。それは信仰共同体における不変の義務なのです。「・・貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。・・貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」(申命記15:7-11)。社会の中で貧しい人々や弱い立場に置かれている人々にとって、お金や生活に必要なものが満たされることは重要です。一方、聖書はこれらの人の自立を妨げないようにすることも教えているのです。イエス様もこの点を強調していおられるのです。そのつもりがなくても、哀れみや同情から出る施しは人間の対等な関係を歪(ゆが)めてしまうのです。施しには人を偽善者や高慢にさせる危険性が潜(ひそ)んでいるのです。イエス様は抑圧されている人々、弱い立場にある人々の側に立って、その苦しみと痛みを共感されたのです。様々な病を癒し、罪を赦し、立ち上がる勇気を与えられたのです。新約聖書において「立ち上がる」とは「復活すること」を示唆(しさ)する言葉です。施しもこのような観点から行われるべきなのです。イエス様は方法を教えられたのです。施しの事実を誰にも知られないようにすることです。神様が受ける人々に効果的に用いて下さるのです。

*イエス様は祈りについても警鐘を鳴らされたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは個人的な祈りであっても、人に見てもらうために敢えて会堂や街角に立って祈るのです。自分たちの信仰心の篤さを誇り、人々から褒(ほ)めてもらうためにそのようにするのです。イエス様はこれらの人の動機について非難されるのです。神様に祈りを捧げるのではなく、自分の名誉のために祈りを利用するのです。神様が求めておられるのは真実の祈りです。神様と対話するためには祈る側に誠実さと純粋さが不可欠です。誰もいない部屋に閉じこもって祈るのです。「主の祈り」には個人的な願いは見られないのです。神様はすでに人々の心の内をご存じだからです。イエス様は信仰共同体として祈るように指示されたのです。ユダヤはローマ帝国に支配されていたのです。「主の祈り」は当時の状況を色濃く反映しているのです。圧政の下で苦しみ、窮乏生活に喘(あえ)ぐ人々の悲痛な叫びを代弁しているのです。イエス様は希望の光を与えられたのです。内容は「神様と隣人を愛すること」が基本になっているのです。律法全体が要約されているのです。ユダヤ教の伝統的な祈りと共通する点が多いのです。しかも、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」のようなユダヤ教独自の表現は見られないのです。一方、「イエス様の御名によって」、「救い主の御名を通して」のようなキリスト教的な用語も用いられていないのです。ユダヤ教、キリスト教を超えた普遍的な祈りになっているのです。「主の祈り」を祈っても、個々の人が称(たた)えられることはないのです。

*断食は肉体に苦痛を課すのです。この言葉には「自分を否定する」という意味があるのです。「神様の御心」との一致を求める行為です。神様の在り方に自分の生き方を近づけるのです。その上で妨げとなる物を断つことです。自己を誇ることなど論外なのです。ところが、断食さえも自分を誇る手段になっているのです。神様は「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めて下さらなかったのか」と訴える人々に、預言者イザヤを通して「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない」と言われたのです(イザヤ書58:3-4)。その後も、国の民や祭司たちは主の恵みを求めて断食をしたのです。しかし、預言者ゼカリアは「彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた」と語っているのです(ゼカリヤ書7:11-12)。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の儀(神様の正義)を求めなさい」と言われました(マタイ6:33)。断食とは悔い改めです。戒めの実行において妨げとなっている物を取り除く決意の表明なのです。食を断つことが目的化しているのです。イエス様は形骸化を批判されたのです。

*「施し」、「祈り」、「断食」はユダヤ教の中心的な教えです。イエス様は弟子たちにもそれらの実行を命じられたのです。ただ、いつの間にか空洞化しているのです。信仰心を誇るための手段にさえなっているのです。確かに「神様の御心」に合致した行いはその人の篤い信仰心や敬虔さの表れなのです。しかし、神様は人の心の奥を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの(富や地位)は、神には忌み嫌われるものだ」と言って非難されたのです(ルカ16:15)。人々がイエス様に触れていただくために子供たちを連れて来たのです。尊大にも弟子たちがこれらの人を叱ったのです。イエス様は憤(いきどお)り、「子供たちをわたしのところに来させなさい。・・神の国はこのような者たちのものである。・・子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と明言されたのです(マルコ10:13-15)。偽善者たちや弟子たちの信仰の在り方が問われているのです。「神様の御心」に従う人々に誉れや権力は無用です。神様が共にいて下さるからです。施しは会堂や街角で行わないのです。祈りは隠れた所でするのです。沈んだ顔で断食しないのです。信仰心は神様に捧げるものです。誉(ほまれ)を得るために利用してはならないのです。人々に見せるための行いや敬虔さは偽善です。神様は侮(あなど)られるお方ではないのです。終わりの日には天罰を下されるのです。

2025年06月22日

「悪霊との闘い」

Bible Reading (聖書の個所)

「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊(たち)に対する権能(を支配する権限)をお授けになった。汚れた霊(たち)を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。・・イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人(たち)の道に行ってはならない。また、サマリア人(たち)の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊(たち)のところへ行きなさい。行って、『天の国(神の国)は近づいた』と(言って福音を)宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ10:1-15)

イエスはそこ(ガリラヤ湖の西北岸)を立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マルコ7:24-30)

(注)

・汚れた霊:悪霊のことです。当時、あらゆる病気や患いの原因であると考えられていました。ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの業を貶(おとし)めるために「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。(マタイ9:32-34)

・サタン:元々は神様の命に従って活動する天使です。「告発する者」と呼ばれています。悪霊の頭です。ベルゼブルはサタンの別名です。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢(むく)な正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪(のろ)うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(ヨブ記1:6-12)

・サタンの誘惑:宣教を開始される前のイエス様に挑戦しています。

■すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:3-11)

・サタンの追放:

■さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。(ヨハネの黙示録12:7-9)


・12使徒:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは漁師でした(マタイ4:18-22)。フィリポはイエス様から「わたしを見た者は、父を見たのだ」と叱責されました(ヨハネ14:8-9)。トマスはイエス様が「神様であること」を明言しました(ヨハネ20:24-29)。マタイはローマ帝国の税の取り立てに協力する徴税人でした(マタイ9:9-13)。もう一人のシモンはローマ帝国の支配に武力で抵抗する熱心党に属していました。イスカリオテのユダは祭司長たちからお金をもらってイエス様を裏切りました(マルコ14:10-11)。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。

 

・72人の派遣:その後、イエス様はご自分が行くつもりの町や村に二人ずつ先に遣わされました。

 

■七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)

・異邦人宣教:マタイ8:5-13,15:21-28,28:19-20に記述されています。

 

・サマリア宣教:ヨハネ4、ルカ9:51をお読みください。

 

・イスラエルの家の失われた羊:牧者と羊の関係を表しています。民数記27:16-17、イザヤ書40:11、エゼキエル書34:1-6を参照して下さい。

・天の国:神の国とも言います。神様の支配を表す言葉です。天上と地上において神様が神様として崇(あが)められることです。

・家:教会を兼ねている家もあったのです。イエス様は「家」を宣教の拠点とされていました(マルコ3:20)。

・足の埃を払い落とすこと:強い拒絶反応を表す行動です。

・ソドムとゴモラ:いずれも不信仰の町です。創世記18ー19に登場します。

・サマリア、シリア、ガリラヤ、ゲラサ、エルサレム、ユダヤについては聖書地図を参照して下さい。

・ティルス:ガリラヤの西北に位置しています。ほとんどの住民が異邦人です。ユダヤ人たちから蔑(さげす)まれていました。エゼキエル書26:1-28:19を参照して下さい。

・ひれ伏す:イエス様を「神の子」として認めていることです。

・ギリシア人:一般的には異邦人を指しています。この場合、民族(国籍)としてはシリア・フェニキア人を表しています。

・子供たち:イスラエルの人々(ユダヤ人たち)です。

・子犬たち:犬はユダヤ人たちにとって汚れた動物です。異邦人たちに対する極めて非礼な言葉です。

・サタンがペトロを一時的に支配することがあったのです。

■それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。(マルコ8:31-33)

■「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:31-34)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「わたしは、サタンが稲妻(いなずま)のように天から落ちるのを見(てい)た」と言われました。「神様の御心」が天上で実行されているのです。神様は地上においてもご意思を貫かれるのです。それが、イエス様を通して証しされた「神の国」の到来なのです。すでに、神様は天上と地上において勝利を宣言されたのです。ところが、汚れた霊たち(サタン)は人間を一時的にでも何とか支配しようとしているのです。汚れた霊たちはイエス様を見れば自分たちの方から話しかけるのです。彼らの中には自分の名前を持っている悪霊もいるのです。イエス様が悪霊を追い出しておられると、人々の中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者たちもいたのです。イエス様は彼らに「わたしは神の指で悪霊を追い出している」と反論されたのです(ルカ11:14-20)。後の話ですが、パウロがエフェソ(現在のトルコ)で宣教していた頃、悪霊がイエス様の名前によって自分を追い出そうとするユダヤ人祈祷師(きとうし)たちに「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言って、彼らをひどい目に遭わせたこともあったのです(使徒19:11-16)。結果として、イエス様の名が大いに崇(あが)められるようになったのです。しばらくはこの世の支配者であるサタンとの闘いが続くのです。その際、キリストの信徒たちの信仰が常に問われることになるのです。ティルスの母親が示したようなイエス様への揺るぎない信頼が闘いを勝利に導くのです。

*イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されました。いよいよ「神様の支配」が実現するのです。イエス様を通してその事実が人々に見えるようになるのです。先ず、シモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子とし、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムの会堂で安息日に教え始められたのです。人々は律法を引用するのではなく、ご自身を主語とする教え方に驚いたのです。そのとき、会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男が叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱(しか)りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのです。人々は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚(けが)れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々に広まったのです。夕方になって日が沈むと(安息日が終わると)、町中の人が病人たちや悪霊に取りつかれた人たちを連れて来ました。イエス様は彼らを癒されたのです(マルコ1:14-34)。最も古いマルコ福音書は16章です。他の福音書と比べても短いのです。イエス様の悪霊払いを四例も取り上げているのです。最初に「復活の主」に出会ったマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出していただいた女性です(マルコ16:9)。人々は悪霊に苦しめられていたのです。

*イエス様は弟子たちの中から12人を選んで使徒として各地方に派遣されました。その際、汚れた霊に対する権能をお授(さず)けになられたのです。「神の国」の宣教活動の中には悪霊払いという重要な使命がありました。多くの人が悪霊に悩まされているという厳しい現実があったからです。イエス様の一行がガリラヤ湖の東側にあるゲラサ(ガダラ)地方に着きました。汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来てひれ伏したのです。イエス様がこの人から出て行けと言われると、汚れた霊は「いと高き神の子イエス・・苦しめないでほしい」と大声で叫んだのです。この霊には「レギオン」(大勢)という名前がありました。イエス様は彼らの希望通りに豚に乗り移らせました。豚の群れは崖(がけ)から落ちて湖の中でおぼれ死んだのです。汚れた霊に取りつかれていた人は正気に戻り、イエス様に従いたいと願い出たのです。しかし、イエス様は主があなたを憐れんで下さったことを身内の人々や地元の人たちに証ししなさいと言われたのです。この人は直ちにそれを実行したのです(マルコ5:1-20)。カファルナウムの会堂にいた汚れた霊もゲラサの「レギオン」もイエス様を見て自分たちの方から語りかけているのです。早かれ遅かれ滅ぼされることを承知しているのです。イエス様のお名前を使うと汚れた霊たちは屈服するのです。サタンはすでに天から追放されているのです。イエス様は「・・あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と励まして下さるのです(ヨハネ16:33)。

*一方、イエス様は悪霊に取りつかれた子供たちの癒しについては悪霊と直接言葉を交わされることはなかったのです。親の信仰を重視されるのです。地中海沿岸の町ティルスにも悪霊に苦しめられている異邦人の幼い女の子がいました。母親は幼い娘のことを心配していましたが、有効な治療方法は見つからなかったのです。ある時、母親はイエス様が近くに来られたことを聞きつけたのです。すでに、彼女はイエス様の評判を知っていました。藁(わら)をもつかむ思いでイエス様のもとへ駆けつけたのです。ところが、イエス様は母親の申し出をすぐには受け入れられませんでした。「悔い改め」が必要な同胞への宣教を優先されるのです。「神様の祝福は他の民族(異邦人たち)よりもユダヤ人たちに優先的に与えられるという祖先への約束」を表現した諺(ことわざ)を用いて、母親の信仰心を確かめられたのです。彼女はユダヤ人たちの優越性を認めた上で、恵みの極一部を異邦人の娘にも分けて下さるようにと懇願したのです。母親の言葉は謙虚とか遠慮と言うようなものではないのです。イエス様への絶対的な信頼を表明しているのです。彼女はイエス様が誰にでも癒しの業を実施して下さることを信仰によって確信していたからです。マタイの並行個所では、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言われたのです(マタイ15:28)。その時、悪霊は幼い娘から追い出されたのです。母親は家に帰ってその事実を確認したのです。先ず、イエス様を信じることから始めるのです。そうすれば願いは叶えられるのです。

*汚れた霊に苦しめられている(恐らくてんかん症状のある)息子を持つユダヤ人の父親がイエス様に助けを求めてやって来ました。汚れた霊はイエス様を見るとすぐにその子をひきつけさせたのです。その子は地面に倒れ、転び回って泡(あわ)を吹いたのです。幼い時から今日に至るまで息子の病状は少しも改善しませんでした。汚れた霊が息子の命を危うくすることも度々あったのです。父親はイエス様の弟子たちに癒していただこうとしたのですが、彼らには出来なかったのです。イエス様に出会った父親はわずかな望みを抱いて「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と申し出たのです。イエス様は「おできになるなら・・」と言った父親の不信仰を叱責(しっせき)されたのです。「信じる者には何でもできること」を明言されたのです。父親は自分の不信仰を悔いたのです。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」と再度訴えたのです。イエス様は汚れた霊に「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と命じられたのです。すると、汚れた霊は叫び声をあげ、ひどくひきつけさせて息子から出て行ったのです(マルコ9:14-27)。イエス様から指示されると彼らは黙って従うのではないのです。人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行くのです。汚れた霊たちは抵抗するのです。しかし、最終的に人間に対する支配を放棄するのです。悪霊であれ、他の誰であれ「神の国」の福音を妨げることは出来ないのです。イエス様を信じて悪霊と闘うのです。

2025年06月15日
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